2011年3月11日PM14:46 東日本大震災が起きてから、もう10年も経ってしまったのかと思うと、時の流れは早いと感じると同時に、福島にはまだ帰れない人がたくさんいると思うと心が痛いです。
あの日、私は仕事で都内で会議をしていました。「ドン」という大きな揺れがしたと同時に、大きく揺れはじめ、急いで会議室と玄関ドアを開けて避難路を確保したところで、上を見上げると、目の前のビルが「こんにゃく」のようにユラユラ揺れていたのを覚えています。幸い帰宅難民になることはなく、車で帰ることが出来ましたが、電車もたしか当日は動かなかったと思います。たくさんの人が、何キロもの道のりを自宅まで歩いて帰っていました。
そして、テレビを家でつけると、福島第一原子力発電所の炉心溶融(メルトダウン)が起きて、爆発をしている映像が流れていました。一番に安否が気になったのは、福島県富岡町にいる、祖母や親戚のことでした。このときは、電話等は一切つながらず、唯一連絡を取る手段が、Twitterやfacebook等のSNSが利用出来たことが唯一の救いでした。Twitterで次々本当か嘘かわからない情報が流れてきて、とても不安な夜を過ごした思いがあります。
地震から2日後、福島県から叔父と叔母と祖母が避難してきました。祖母は近所の人に言われるがまま、財布すら持たず、本当に身一つで避難してきました。叔父と叔母は、避難所にいる祖母を発見して、ほっとしたのもつかの間、避難所には祖母をおいておけないからとわざわざ埼玉まで連れてきました。家族皆、泣きながらの対面でした。その後、叔父と叔母はすぐに福島へ帰りました。まだ、息子や娘も福島ですし、家に残してきた犬も心配だったのでしょう。
祖母は避難してきてから、昨年亡くなるまで埼玉県におりました。毎年、今の時期になると、津波のニュース映像が流れてきて、涙しているのを覚えています。と同時に「福島に帰りたい」と言っていました。ボケも進行していたので、この時期は福島へ帰りたいと徘徊してしまうこともありました。ちょうど昨年のこの時期に徘徊して、腰の骨を折り、入院してしまいました。
コロナでお見舞いもろくに行けずに、結局最後まで会えないままお別れになりました。
後悔は先に立たずと言われますが、もっとひ孫の顔を見せにいってあげればよかったなと思っています。
ばあちゃん、ごめんね。
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